「ガルル中尉、お久しぶりであります」
「ケロロ君も…元気そうで何よりだ」
ケロン星随一の繁華街にある大人の隠れ家的なナイト・クラブ『keroblanca』でガルルに呼び出され、待ち合わせ場所としてこの店の一番奥にある個室が選ばれた。
コバルトブルーに統一された天井とクロス、点在する淡クリーム色のペンダントライト、そしてどこか懐かしい生ピアノ演奏のBGMが流れている。
まずは再会を祝しての乾杯、クリスタルガラス同士が軽快な音を立て、ケロロは満面の笑みを作りグラスに口づけた。
「いい店でありますな」
ケロロはポソリと呟き、天井を仰いだ。張りつけた笑顔がすぐに解ける。
店内の青は地球の海を思い出させる。夜の海と、空に瞬く星々の明かり。締め付ける胸の痛みに、思わず顔を背けた。
地球を思い出すことは、懐かしいというより切なく、そして苦しい。
ケロン軍の地球撤退から早や20年が過ぎた。
地球人の宇宙開発は、地球外人類が予想するよりも遅れを取った。その地球上から一旦、多くの宇宙人が引き上げることになった。一切の侵略を停止し、地球人の発展を見守るための停戦協定『見守り協定』が決まったのだ。
ケロン軍の命に従い、ケロロ小隊全員も地球から引き上げた。
別れの時のことは思い出したくない。だが、日向家の人々のことを思い出さない日は、一日もなかった。
「あれからもう20年か、早いな」
「そうでありますな、時が経つのはあっという間であります」
ケロロは思いを馳せるように目を細めた。グラスの中の氷がカラリと無機質的な音を立てる。その指先が微かに震えているのを見て、ガルルはケロロの胸の内を感じ取った。
「ギロロは元気でありますか?」
「ああ、相変わらず戦場を飛び回っているよ。奴にはそれ以外の生き方など思いつかなかったようだ」
想いを断つことが一番辛かったのは恐らく彼なのだ。生涯ただ一度の恋を胸に秘め、武骨な男は戦場に生きることを決めたのだろう。
クルルも、ドロロも、タママも、彼らなりの生きる場所を探し、それぞれに相応しい場所で生きている。
それに比べて自分は───
「ケロロ君はどうするんだね」
一番訊かれたくない言葉に、心臓が跳ね上がる。
分かっている、このままでいいワケがない。ガルルは全てお見通しだ。相変わらず、その金色の視線は、ケロロの心へ無遠慮に踏み込んでくる。
「相変わらず、容赦ないでありますな〜」
ケロロは苦笑しつつ、グラスに指を伸ばした。琥珀に揺れるそれが、瞬く間に空になる。最近では時々肝臓のあたりに焼け付くような痛みを感じる。そろそろ身体が悲鳴を上げているのだろう。
「お父上から聞いたよ。君の母親も随分と憔悴しているようだが」
あの優しい両親に心配をかけていることはとても辛い。しかし自分には、皆のように新しい生き方を模索することが出来なかった。進むことも戻ることも出来ず、ただ時を止めていたに過ぎない。自分の殻に閉じこもることが、自分を守る精一杯の手段だったのだ。
「君はケロン軍からの特別の計らいで最長20年の休役が許されている。隊長の素質保持者という特権と地球侵略任務での功績を付加して決まった期間がね」
ケロロは薄く笑った。地球侵略での功績などゼロに等しい。寧ろ軍はケロン・スターを保持する者を逃がすつもりがないのだろう。最長20年の休役期間が明けたとしても、おとなしく退役させてくれる筈がない。自分が拒んでも、記憶洗浄されて新しい任務に就かされるのがオチだった。
「結局どんなに逃げたって、我輩に選択肢なんてないのであります」
ケロロは明るい口調で言い放って、それからまた新しいグラスに指を伸ばし───その指をガルルの指が押し止めた。
「選択肢ならある。私が君に与えてやろう」
柔和に見せ掛けていた表情が一変し、黒い双眸がガルルを射抜く。こんなきつい目をするケロロを見るのは何十年ぶりだろうと、ガルルは唇の端を吊り上げた。
「私なら君を退役させることも可能だ。そして君は私と二人で暮らせばいい」
「ゲロッ?」
「結婚しよう、ケロロ君」
ケロロはフリーズした。ポカンと口が開いたまま、全ての思考が一時停止した。それから数秒後、まず頬に火が灯った。カーッと熱くなった頬の熱が顔中に広がり、頭のてっぺんからボンッと湯気が出て、そのあとやっと口が動いた。
「な、な、なっ、なにっ、なにににに…」
「落ち着きたまえ」
「な、何バカなこと言って我輩をか、から、からかってるでありますか!いくら冗談でも…」
「冗談などではないよ」
真顔のガルルに、ケロロは息を飲んだ。いい感じでほろ酔いだった頭は、既に別の熱で支配されていた。真摯な視線を感じて、ケロロの心臓は壊れそうな程に高鳴っていた。
「私はいつでも本気だがね。冗談でプロポーズをするほど酔狂な性格ではない」
確かに言うとおりだ。公私を完璧に分ける完全無欠な男は、されどどちらにおいても誠実さに一点の曇りもなかった。好きになったのも、そんな彼の誠実さが理由の一つだったように思う。
そうだった、我輩はこの人が本当に好きだったんだ。
儚い恋だった。その時は本気だったけれど、同性同士の関係というプレッシャーに負けたのは自分だった。
それでもお前を想っているよ。
逃げるように一方的に告げた別れにも、ガルルが自分を責めることは一度もなかった。
「…もうとっくに終わった関係であります」
「私にはそうは思えんがね。君が今でも未練を残していると思うのは私の自惚れかな」
「な、なんちゅー自信家!」
臆面もなく告げるガルルに、ケロロはたじたじになった。舌がもつれるのは決して、アルコールのせいではないだろう。
「やり直してみないか」
ケロロは泣きそうになった。この店で、こんなBGMで、この低音で響く言葉は卑怯だ。胸が痛くて、涙腺が崩壊しそうになる。
青い青い美しい星を、初めて見た日のことを思い出す。それから日向家での日々、気の遠くなるような美しい思い出たちも。
ああ、思い出した、この曲…この曲は日向家で聴いたことがある。
ママ殿が地球のとても古い映画の主題歌だと言っていた。モロッコという国の一都市が舞台の、その切ないストーリーを聞いて夏美殿の乙女心が満開になってその場所に行ってみたいと言い出して、そしたら冬樹殿が映画は興味ないから同じモロッコでもマラケシュのボルビリス遺跡に行きたいと言い出して、二人とも譲らないから自分とママ殿で姉弟喧嘩の仲裁をしたのだ。
賑やかで、温かい家族だった。毎日が騒々しくて楽しくて。あのお別れの日、彼らの記憶の全てと痕跡を消して地球を去った日、自分の人生も終わったように感じたのだ。
あの日から、ケロロの全てが止まってしまった。
ぽろぽろと、小雨のような涙粒が頬を流れ、テーブルに水溜りを作っていく。
「やり直したい…であります」
もう一度、やり直せたらどんなにいいだろう。もう一度地球で、ケロロ小隊として、また彼らに会えることが出来たら。
そのケロロの涙を、紫の指がそっと辿った。
「…私のために流す涙ではないのが口惜しいことだがね」
潤んだ瞳がガルルを見つめた。
「選択肢をもう一つ与えてあげよう。ケロロ軍曹、もう一度地球でやり直してみないか」
「えっ…」
ガルルの言葉の意味を探るように、漆黒の瞳が瞠目した。
「選択肢は何も一つだとは言っていない。もう一度ケロロ小隊を結成し、地球へ行ってみないかと言っているのだよ」
「そ、そんなことが…出来るのでありますか?」
信じられない、そんな夢のようなことが実現するのだろうか。いやしかしガルルは、何の根拠もなく大口を叩く男ではないし、人の心を弄ぶような冗談を言う男でもない。
「但し、よく考えたまえ。あれから20年、君の居た日向家の環境は大きく変化している。彼らはもう少年や少女ではなく、地球年齢では壮年期の大人なのだ。それでも…」
「行くであります!どれだけ日向家の皆さんが変わっていても、我輩の生きる場所はそこしかないのであります!」
もしもその願いが叶うのなら、多くのことなど望みはしない。
さっきまでとは打って変わった張りのある声で、ケロロは訴えた。
「よく言った。それでこそケロロ軍曹殿だな」
ガルルはニヤリと微笑み、ケロロの肩に手を置いた。
「休役期間の満了までもう僅かしか時間がない。これが君を立ち直らせる最後のチャンスだと思っていたよ」
ガルルは数枚の書面をケロロに手渡した。そこには宇宙環境局が調査した地球環境の変化と危惧についての記事と、それに対するケロン軍の考察及び措置内容が記載されていた。
「この20年間地球では生態系の保全や環境保護を積極的に行ってきた。だが彼らの持つ科学力ではもはや回復の見込みは困難だと我々は判断した」
そこで再びケロン軍は地球へ侵攻し、ケロン軍の科学力を持って地球環境を救うべく侵略を再度開始することとしたというのである。
「今度はただの侵略ではない、我々が彼らの星を救うのだ」
「…どっかのアサシンが泣いて喜びそうな話でありますな」
ケロロの顔が綻んだ。ドロロ兵長が聞いたら飛びつくような話だ。これなら前回以上にクルル曹長の力も必要になるだろう。これはケロロ小隊には打ってつけの任務だと思った。
でも、と呟き、ケロロの顔に翳りが差した。
もうケロロ小隊は解散してしまった。こんな話は、今更なのではないのだろうか。
「元ケロロ小隊四名には既に打診してある。まあ隊長が首を縦に振らなければ、この話は無論なかったことになるのだがね」
ガルルはフッと笑みを零した。それから、と念を押すように付け加えた。
「今回の任務は前のように本部も暢気には待ってくれない。地球環境は年を増すごとに急激に悪化していることが分かっているからな。だから本部はこれを一小隊だけを先行部隊として送るのではなく、もう一つ別働隊を補佐として送ることを決定している。その両隊の指揮官が───私だ」
ケロロは驚きのあまり、書面を両手から落とした。ガルルが総指揮を取るということは、ガルルもまた地球へ滞在するということになる。
「…もしかして昇級話を断ったのはそのためでありますか?」
家に引きこもっていたケロロの耳にも、時折ガルルの噂は届いていた。大尉と少佐を素っ飛ばして一気に中佐への三階級特進の話が出ていたのに、当のガルルは前線任務に拘ってこの話をきっぱりと断ったと聞いていた。その時はそれもガルルらしいと思っていたのだが。
「ケロロ小隊を再結成し我輩を現役復帰させてなんて、何の条件もなくっちゃそんなの本部が許してくれないであります。そんなに甘くないのは我輩だって分かっているであります。でもガルル中尉が小隊二つを統括して自ら赴くというなら、本部の信用は絶対的であります。ガルル中尉は我輩のために…」
「それこそ自惚れではないのかね、ケロロ軍曹」
ガルルは笑いながら、グラスの中身を一気に呷った。
ケロロは自分の言った台詞に顔を真っ赤に染め、そしてジンジンするほど高鳴る胸を押さえながら、言葉を繋げた。
「…ありがとうであります。ガルル中尉がどんな気持ちだとしても、我輩こんなに嬉しいことはないであります」
今度は自分からガルルの指にそっと触れた。その懐かしい力強さに胸が躍る。思い出すのは何も地球のことばかりではない。淡い恋心のままに重ねたガルルとの拙い恋愛も、自分にとっては大切な思い出だった。
「では聞こう。もうひとつの答えは…如何なものかな?」
「ゲロッ、それって…」
これ以上赤くならないと思われた頬は、触れれば火傷しそうな程に熱を帯びているだろう。自分で見ることは出来ないが、ギロロにだって負けないくらい赤ダルマ顔…そして蕩けた顔で、ガルルを見つめ返しているのではないだろうか。
「結婚しよう。今すぐにとは言わん、我々も地球でもう一度最初からやり直すのだ。時は経った、しかし大切なものは何一つ変わっていないのではないかな、地球のことも互いのことも」
「ガルル…」
「時ですら忘れさせることが出来なかった想い、それを共に積み上げていこう。私はずっとお前を想ってきたのだ、ケロロ」
それでもお前を想っているよ。
あれはもう何百年も昔のことじゃないだろうか。
時が忘れさせてくれる幼い恋だと無理やり片付けたのは自分だけだった。本当は少しも色褪せてなどいない想いを、そうやって心の奥の箱に仕舞い込んでいただけ。
「我輩も…好き…であります」
強く瞑った瞼も閉じ込めることが出来ない涙が、一層強くなって零れ落ちた。
もう一度やり直してみよう、上手くいかなった何もかもを。
そのチャンスをくれた大切な人と共に。
ガルルの唇が零れ出る嗚咽を塞いだ。
どれだけ泣いてもいい。またその唇が元気な言葉を取り戻すまで、私は愛の言葉を囁こう。
ガルルはテーブルにある小さなランプのスイッチを切った。店内で唯一真夜中のように暗がりとなった個室の中で、ケロロの身体を掻き抱いた。
Fin
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